2025年が滑りだして早19日。
このペースでいくと、あっという間に夏が来ます。
怖いですねー。
今日お米を買ったら5キロで3800円ぐらいしました。
怖いですねー。
ついこないだまでオマエは2000円ぐらいだったろうがっ!
もう白米は贅沢品。
日本に生きるのが怖い。たすけて。
そんな嘆きのmeを救ってくれたのがMJことみうらじゅん様。
新年早々、国営放送で放送していた「最後の講義」がミーのカーのギアをローからトップにガコンガコンでクラッチを踏み込む左足がいそがしいぜという状態に。
それにしてもハチロクが高くて驚くよね。
あの頃は大学生も乗ってたなんて信じられないよね、って話がそれたすまんすまん。
MJの説法、それは曼荼羅
MJの「最後の講義」をすきっ腹でくらうわけにはいかないと、マッシュルーム(アヒージョ・合法)を摂取しながらA4のコピー用紙に展開した雑な曼荼羅的落書。

やはり幼少期から本腰を入れた宗教家はいくらサブカルの冠を被せたところで、本来持つ実像のありがたさが尊びまくって、抑えきれないリビドーのように迫り上がってきてしまうものです。
なにを発しても、とめどなく目から落ちる鱗とポンポンと乱れ打つ膝よ。
この「最後の講義」というシリーズは「もし人生が最後だとしたら何を伝えたいか」というのがテーマ。
講義は「老いるショック」からはじまり、自分の中途半端さにコンプレックスを抱く幼いころをたどります。
青年期にもそれは継続。ロックに憧れながらも両親や先生とも、そこそこうまくやっていける自分。
ハングリーさの欠如を嘆きつつモヤモヤとした青春を、みうら青年はどう過ごしてきて今の境地に達したのか。
さて、「もはや説法」というレベルの講義に耳を傾けていると、すべての話が繋がっているということにたどり着きます。その様はさながら曼荼羅なのです。
話のひとつひとつに尻尾があって、その尻尾を次の話がくわえてる。
今聞いた話は前の話の尻尾をくわえてる。
そんなふうにMJの話は終わってみれば綺麗に円を描いているのです。
「あきあり」と読むべからず
「人は死ぬんだってよ」とMJはいいます。
火葬場の見学へ赴き、そこで聞いた火葬の現実。
「火炎放射器で頭から焼く」
そして「最期は白い粉になって麻薬に間違えられるんだ」と具体的に人間が無に帰す姿を教えてくれます。
真面目に生を考えているからこそ、目を背けずに最期を知ろうとする探究心。
深い含蓄というものは地道で暗くて人が行かない道を先導する人から授かるものなのだと有り難く聞き入ります。
「人は何もない”無”から出てきて”無”にかえっていくから怖いことなんてない」
この話はその前の「駐車場の”空あり”」の尻尾をくわえています。
おわかりかと思いますが「くうあり」と読みます。
「ない」が「ある」とはこれ如何に。
17分くらいからはじまる「最後の講義」で語った「空なし」の話。
ご自身で「修行が足りない」とおっしゃる古舘さんに向けてMJはこう諭します。
「満珍楼で空芯菜を」と。
ティファニーで朝食ではなく満珍楼で空芯菜こそが答えだと。
「空なし」の話からラストまで、まるで用意していたのかと思うくらいのスムーズかつピッチのよさに酔いしれ聞き入ってしまう。
もう仏教界の玉置浩二といってもいいのではないでしょうか。
親戚に寅次郎の扱いをうけて尊しと為す
「クィーンの映画観てもしょうがないじゃん、俺が」とMJ。
あの大ヒット映画を観ずにMJが観にいく映画は「若おかみは小学生!」だといいます。
”よしっ!私もあの映画は観ていない”
MJとの共通点に心躍らせるわたし。
クィーンが嫌いなわけでもなく、いやむしろ好きなほうなんだけど、なんとなく興が乗らないってんで観ないまま。
では私が観るべき「若おかみは小学生!」ポジションの映画はなんなのか。
その答えは風に舞っているのです。
それにしてもMJのシナプスはどうなっているんでしょう。
こんなにスムーズにギアが繋がります?
ガコンガコンと大袈裟な音立てて変速していくことしかできない自分が情けなくて涙でてくらぁ。
腹に札束を仕込み新宿さくらやウォッチ館に向かうMJ。
森山大道に撮ってほしい。
そしてそれを私は壁に飾り毎朝拝みながら日課の筋トレ(朝のおつとめ)をします。
MJといえばボブ・ディランですが「最後の講義」では「寅さんはロックンローラー」と説き、「最終的に寅さんになるのが目標」といいます。
普段からホップの活動を怠らないMJは、ついにその日を迎えます。
何十年かぶりに法事に参列した際に、その場にそぐわぬ格好のMJを見た親戚のおばさんから出たセリフ
「来てくれただけでいいじゃない」
これです。実りのステップへの瞬間です。
しびれますね。くぅ〜。
最終的に親戚に寅次郎の扱いをうけて尊しと為す。
この精神をもって風に舞う答えを探しながら流浪の旅を続けたいものです。
諦めることが大事
話が長くなってきたので雑になりますけど、まあいいか。
「諦める」ってことが大事なんですって。
諦めるって仏教の言葉でもあって「明るむ=つまびらかにする」って意味があるらしい。
だとすれば米5キロが高いと嘆いていても仕方がない。
自分で稲を植えて収穫することもできないのだから。
米農家さんと物流業界の方々に感謝して買って炊いて食う。
そうして日々をくりかえし最期に観る走馬灯は「こうなりたかった自分」に盛って堪能して逝く。
白い粉になるのが怖くて仕方なくなったり、自分らしさを見つけるのに躍起になっちゃったりした時は、この「最後の講義」を観て深呼吸をすればだいたいなんとかなりそうだと思うと心がちょっと落ち着きます。
自分らしさを欲したら思い出してほしい「自分らしさ三段活用」
”自分らしさ”
”自分かしら?” ← 台無し感
”自分さしら” ← もはや意味がわからなくてバカらしくなる
まあ、ここまで長々と書いたけども、観たらわかるさ迷わず観ろよってことで課金しても観たい方はどうぞ。
NHKオンデマンド
国営放送への課金にチッと思うことがあったとしてもMJへのお布施だと思えば諦めもつきます。